独白、「宗教と私」

 意外と思われるかもしれないが、病気が治らずに酷かった時、宗教に助けを求めた事がある。そこまで追い詰められていたということだね。
 まず、自分が多少なりとも詳しい禅宗のお寺に行った。住職さんにお話しして、いろいろと教えて貰うことにした。数週間は通っていろいろと教えて貰った。しかし、禅宗の思想や悟りの本質が、「悟りは自分の力で得るもの」ということに行き着き、これは難しいと思って辞退した。
 次に、愛の宗教であると言われるキリスト教に頼ろうとした。メソジスト系の教会に飛び込み、牧師さんに事情を話して、キリスト教の教えである聖書の勉強をすることになった。週に一回、二時間くらいの学習を半年は続けた。それまで知らなかった事をいろいろと知る事ができたので、実りは多かった。だが、最終的には復活を信じる事ができるのかどうか、という点に至り、これも難しいと思った。
 結局、その経験で得たのは、「宗教というのは、信じる事によって自分で自分を救うもの」であって、「その中にいれば、勝手に救われるもの」では決してないということだ。
 要するに、信心、修行、祈りといった行為により、自分で自分の気持ちを納得させるための方便として、宗教という装置があるのではないかと。
 だから、私は宗教の存在を決して否定しないが、宗教の信者が抱く「万能感」や「選民感覚」などに対しては否定したくなる。また、狂信者になることにより、社会的に危険な存在になってしまうことや、そうなることを強要したり、信者からの集金装置と化しているカルト宗教は断固として否定する。
 自分の満足は、自分の中だけにとどめておく物だ。決して人に強要したり、信じる事によって人生を崩壊の方向に持って行くべき物ではない。
 それが今の私の宗教に対する距離である。