やっと調子が出て来た

 川崎フロンターレ、第11節を終わって現在のところ3位。
 最初の頃は引き分けとか負けが多かったが、やっと調子に乗ってきて今のところ4連勝中。
 フッキの退団とかジュニーニョの不調、関塚監督の交代など、不安要素もあったが、それを乗り越えて勝ち進んでいる。
 なんだか、毎年思うのだが、川崎Fは好調/不調の波が大きいよね。いつもハラハラさせる。まあ、そこがこのチームの面白いところでもあるんだけどね。

1分で分かる「罪人に人権無し!」の違憲性

   無題ブログ−大野の日常さんに答えます。
 上記のエントリに対して、私が何の根拠を持って「暴論」であり、「現実的でない」と主張するのか、その根拠を示す。
 以下は、日本国憲法からの抜粋である。

  • 前文 わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する
  • 第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
  • 第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
  • 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする
  • 第31条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
  • 32条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない
  • 第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 「無題ブログ」の管理人は、「情状酌量の余地のある故意の殺人」と、「情状酌量の余地のない故意の殺人」を分けて、後者の場合にのみ「人権を剥奪する」と主張し、

私が書いてる意見は、自分の欲で起こした故意の犯罪者(愉快犯)に対しての意見です。

としているが、その場合、前者と後者をきっぱりと切り分ける判断基準を決める事は不可能であり、グレーゾーンが存在してしまうことを忘れている。
 そうなると、以下の事項にも違反することになる。

  • 第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 というわけで、「無題ブログ」の管理人が主張することは明らかに憲法違反であり、裁判の公平性および法によって定められた平等の概念に反するものである。
 したがって、「無題ブログ」の管理人が主張することを実現するためには、憲法の前文および第3章を全面的に改変しなければならなくなる。しかし、このような危ない主張に賛同する国会議員はいないと思われるので、改憲活動をするのは構わないが、誰も相手にしないと思われる。
 そこまでの暴論であるという自覚の元、今後の主張を行って貰いたい。

10秒で分かる事の経緯

 事が長期間にわたってしまい、追いかけるのも難しくなっていると思われるので、これまでの経緯をまとめてみる。
 発端は、私が書いた4月29日のエントリ「加害者にも人権はある」に対する意見である。

故意の人殺しや強姦については人権要らないと思います。
何を平和ぼけなこと言ってるんでしょうか。
自分の家族・子供・恋人がもし殺されたら、加害者にも人権とか言える人いるんでしょうか?

無題ブログ−「加害者に人権を」に対し、賛否両論

 この意見に対し、私は5月4日のエントリ「「無題ブログ」の管理人に答える」において反駁したのだが、それに対する回答「無題ブログ−大野の日常さんに答えます。」は、私が満足できるものではなかった。
 そこで、再度の反駁として、昨日に「「無題ブログ」管理人との対話」を書いた。その中で、「人権要らない」ということ自体が憲法に違反するものであると指摘した。
 しかし、それだけでは不親切かと思われたので、下記のエントリにおいて、具体的にどこに問題が出てくるのかを示した次第である。

自分も守られていることに気付かない鈍感さ

 何だか、「無題ブログ」に返事が書いてあったけど、要領を得ない。

法の理念などに元づいて考えてるのはよくわかりますが、ただそれだけで全てを判断するのも私はどうかとも思ってます。

無題ブログ−大野の日常さんに答えます。(追記部分)

 法律という公の約束事を否定するというのが、そもそも非常識だと何故に理解できないのだろうか。「揉め事」や「トラブル」を解決するために民法や刑法があり、裁判所があるのだ。延々と水掛け論をしたり、殴り合いをしたり、最後にはナイフで刺してしまったりしないためにこそ約束事がある。そして、その約束事が破られた場合、刑事にしろ民事にしろペナルティが科せられる。ぶっちゃけると、法律とは堅苦しい物ではなく、実際に中身を読むと、実に生活臭く、人間くさく、当たり前すぎるくらいのことが事細かに書かれているものに過ぎないのだ。

勉強ができても実戦の経験がない人を頭でっかちと言いますが、私は大野さんにそのような部分があることも感じました。

 あー、私が犯罪に遭った事がないから言えるって? そんなことはない。いい加減、長く生きていればいろいろとあった。警察沙汰になった脅迫事件だって暴力事件だって受けた。酷いハラスメントも受けた。今でも私にはその後遺症が残っていて、ずっと治療を続けている。だが、人が長い歴史の中で失敗を繰り返し、作り上げてきた人権や公平という概念は捨ててはいない。
 法治という概念が無くなったら……ゾッとする。理性を信じず、感情だけで行動したら……世の中、暴力と殺人だらけになることは目に見えている。
 それこそ、専制君主「コイツ、ムカつくから殺せ! ん?何が悪いのだ?」という近世以前の世界になる。
 前にも書いたが、「人が人を殺す事は悪い事なのだ」というのはフィクションでしかない。だが、そのフィクションをみんなが共通の約束事として「信じる」ことをしなければ、この世は成り立たない。
 「コイツは人を殺したから、殺されても良いんだ。だから俺がコイツを殺してやる!」
 これ、おかしいと思わない? 突き詰めると、そう言っていることと同じ。「俺」という主語は極端な例だとしても、それが容易に「国家権力」にすり替わるだけ。酷い世の中になるよねー。警察国家による恐怖政治の始まり始まり。

何が正しいか何が間違ってるかは(白黒)、日本国では日本国の憲法で決められてます。
加害者の人権についても、日本国の憲法で決められてる以上、現段階では正しいという答えをだすなら、基準は日本国憲法になりますね。
何度か似たような表現で書いてますが、何が正しい何が間違ってるかの白黒をつけて書いてるのではなくて、私は私の経験でそう思って書いてます。

 でも、白黒つけることが必要になる場合だって、みんなに公平に降りかかるんですけど。
 もし、自分が故意でなく、偶然の過失によって人の命を奪う事故を起こしてしまい、それを遺族から恨まれたとしたら? 罵声を浴びせられ続けたら? 「死んでしまえ」と言われたら? それを想像できますか? 「服役して反省したんだから許してください!」と言っても聞き入れてくれない場合にはどうしますか? 腹を切ってお詫びしますか? そうならないように守られているんですけど、それについてどう思いますか?
 前にも書いたが、故意なのか故意でないのか、そんなのは多くの場合、グレーゾーンだらけの世界だ。いわゆるところの「藪の中」。その中で、「故意の場合は人権はいらない」というのは、「故意なのか故意でないのかを白黒はっきりさせる」という前提が無題さんの頭の中にあるということに気が付いていますか? ご自分が書いている事と矛盾があるんですけど、それを理解できませんか?
 そういう想像力が必要なのが、この世の中です。単純に考えすぎていると思われます。