「しごき」と「容赦」

柔道の部活動中、生徒に脳挫傷などのけがを負わせたとして、神奈川県警捜査1課と青葉署は2日、横浜市立奈良中学校教諭で柔道部顧問の男(28)を傷害容疑で横浜地検書類送検した。
柔道部員の中学3年生の男子生徒に大外刈りや背負い投げなどの技を連続でかけた後、絞め技で意識を失わせたうえ、休憩を与えずに再度投げ技をかけ、急性硬膜下血腫(けっしゅ)や脳挫傷などの傷害を負わせた疑い。
男子生徒は現在、県内の私立高校に通うが、記憶力低下などの後遺症があるという。

中3柔道部員に連続技、脳挫傷負わせた部活顧問を書類送検

時津風部屋序ノ口力士、斉藤俊(たかし)さん(17)=時太山=がけいこ中に急死した。新潟市内の実家に戻った遺体は、家族も正視できないほどひどい状態だったという。激しい稽古で鍛え上げるのが角界の常識とはいえ、根性焼きの跡も。
午前中のぶつかりけいこ中に突然意識を失い、搬送先の病院で死亡が確認された。死因は「虚血性心疾患(急性心不全)」。愛知県警によると、全身に皮下出血やすり傷があり、肋骨(ろっこつ)の軟骨部分に骨折した跡があった。

親方誠意なし…17歳力士急死、耳は裂け根性焼き痕

 何度も書いているが、私はスポーツが上手くなろうと思ったら、飽きる事のない反復練習、そして厳しい体力作りが必要だと考えている。だから、練習において厳しさや多少の無理は必要だ。特に格闘技系の場合、その傾向は顕著だ。とにかく身体を苛めてスタミナを付け、ちょっとやそっとの痛みに屈しない忍耐強さを養う必要があると思っている。ちょっとやそっとの怪我や痛みで練習を休んでいたら強くはなれないしね。
 実際、私も練習中に何度か大きな怪我をしているし、身体中に故障箇所があるが、それはそれで仕方が無いと考えている。
 しかし、「厳しい練習」と「容赦の無いしごき」は意味が違う。
 指導員は冷静に練習している者全員の体調を観察し、注意深く指導しなければならない。それが出来てこその指導員だ。「まだできる」のか、「もうダメ」なのか、長年の経験と自分の体験を元に的確に判断できる人でなければ危なくてやっていられない。
 年に何回か運動部での事故や、相撲部屋での事故のニュースを目にする。「無理偏に拳骨と書いて兄弟子と読む」というのは強くなるうえでの一面の真理なのだろうが、それは強くするための練習の範疇でのみ許されることであり、殺したり一生の障害を背負わすための理由付けにはならない。
 幸い、私は良い先生に恵まれてきたほうだと思うので、ここまで馬鹿なことにはならずに済んでいるが、道場や学校の部活動現場に救急車が来たという話も何かと耳にする。実際、私も剣道をしている時には防具で守られていない後頭部をバットスイングで殴られて悶絶したり、合気道で技を解いてくれないばかりか逆に深く極められて関節がおかしくなってしまったこともあった。そいつらの顔は永久に覚えているだろうし、許す気もない……。
 かように、練習においては、見極めができる人もいれば、何にも考えていないサディストもいる。しかし、習っているほうには、その見分けはつかない。やられてみて初めてわかることだ。
 以前のエントリに書いたが、町道場や一般のジムならともかく、中高生の先輩が後輩を教えることには反対である。指導する側の技術が未熟であるので技が伝わらないし、手加減を知る年代でもないからだ。しかし、その上で指導している先生やコーチまで手加減をしらないサディストとなると問題だ。
 決して甘やかす必要はないと思う。厳しくなければ強くなれない。そして、限界を知るためにも多少の無理は必要だ。しかし、加減は知らなければならない。全国で年に何度も事故を起こしているようでは、「根性主義だけがまかり通るスポーツ指導後進国」と言われても仕方がないと思う。
 このことに関連して、以前、別の日記に書いた、私が思う「良い先生の例」を転載してみたいと思う。この考えは今でも変わっていない。

 教え上手の先生は、実力に裏打ちされた見事なお手本や的確なアドバイスができることは当然として、人間的な魅力、教え方、生徒の心情を把握する能力に秀でている。それは練習の厳しさとは関係ない。実際、私がついて行くと決めた先生の練習は、半端じゃなく厳しいし、要求も高い。しかし、それでもなお、なぜ、その先生を選んだのか、その理由を以下に挙げてみる。

  • 厳しい条件を課し、決して甘やかさないが、細かく状況を観察し、的確なアドバイスを与え、士気を下げるようなことはしない
  • 少しずつでも良くなってきている場合、その点を指摘し、誉めることで良い点を伸ばし、さらに達成への努力をしようという気にさせる
  • 行き詰まった時には同じ目線まで降りてきて、どうすれば解決できるのかを一緒に考えてくれる
  • 上手くできないからといって決して見下すようなことはしない。先生は出来て当たり前、弟子はできなくて当たり前
  • 叱咤激励するのはかまわない。怠けていたり、出来が酷いために怒ることもかまわない。竹刀や怒号、罵声もかまわない。ただ、その原因についてのみ指摘し、決して人格まで攻撃するようなマネはしない。人格と実力は関係ない(残念だが、そんな先生も時にはいる)
  • 完璧ではないにしろ、成果がある程度まで出た際には、一緒になって喜んでくれる。それが難しくて厳しい課題だった場合には、この時に大きな達成感を感じることが出来る
  • 完璧では無いという点をマイナスと見なさず、これから努力して向上するための目標としてプラスに転化することで、続けようという気を起こさせる
  • 練習の間は先生と弟子で、一切の妥協は許さないが、練習が終わった後には、人と人としての対等な関係に戻る(練習以外の場所でも、自分は先生だからどこでも偉いんだと勘違いしている人は意外と大勢いる)
  • 道場や練習以外の場所や時間であっても、尊敬できるだけの人柄。性格的な問題ではなく、その人なりの方法で自分を表現してくれるのか(道場から出たら他人という関係では味気ない)