野蛮と秩序

ボクシングはなぜ合法化されたのか―英国スポーツの近代史

ボクシングはなぜ合法化されたのか―英国スポーツの近代史

 野蛮だとされるスポーツに関する賛否はいつの時代にもある。法治国家にありながら、「スポーツ」という名において「免責される殺人」を許可するわけなので、倫理的な判断は微妙なものになる。
 実際、最近は格闘技に限らず、球技などにおいてもどんどんルールが過激になってきているが、「安全性」への配慮には非常に気を使っていることがわかる。
 しかし、「野蛮」であり、「危険」であるという一点で論議をした場合、「伝統」とか「文化」、「競技」といった言葉だけでは倫理的に弁護しきれないのも確かだ。
 本書は、イギリスのスポーツ史を例に取り、なぜに「免責される殺人」なる概念が形作られてきたのかを考察している。結局のところ、歴史的に見ても、やはりスポーツの危険性と合法性というのは背反するものであり、「安全性への考慮」というアリバイを講じることによって合法性を保とうとしてきたわけである。
 競技者の側からすれば、このような倫理的な判断などハナから「クソくらえ!」であり、「やりたいからやっている」のであるが、社会全般、そして秩序を統治する側からすれば、「傷害・殺人行為」をそう簡単に見逃す事などはできないだろう。
 その逆の例として、法を執行する側がスポーツというアリバイにおける「殺人」を許容し、大衆のガス抜きとして利用した場合に何が起こるのかという思考実験として、「ローラーボール」というSFが書かれている。
ローラーボール (ハヤカワ文庫NV)

ローラーボール (ハヤカワ文庫NV)

 もちろん、私はこんな悪夢のような世界は望まないので、法の執行者側とスポーツとの間には、いつでも駆け引きがあるべきであり、バランス関係や対立関係が必要だと思っている。両者が結託するとろくな事にはならないというのは、容易に想像がつくことだ。
 実際、聞き及ぶ限りだと、タイの国技であるムエタイですら、タイ国内であっても「野蛮すぎないか」という賛否両論が今でも絶えないとのことである。
 確かに、総合格闘技が、今の技術体系のままでオープンフィンガーグローブを廃止して素手になり、目や金的といった急所攻撃まで認めたら、さすがに私も反対するだろう。そんなものは、防具を廃止して木刀での直接打撃を認める剣道と変わりはしない。
 確かに、時代によって技術や器具、ルールは発展してゆくものなので、素手での顔面打撃や急所攻撃に対応する技術体系が確立され、見る側にも免疫ができてしまって、実際には「そう危険ではない」とされる日が来るかもしれない。それはそれで先の事なので何も断言できないし、私は予言者ではないのでこの先に何が起こるのかもわからない。
 だが、いつでも「野蛮性・危険性」と「安全性」のバランスを測る行為は忘れてはならないことだと思う。


#とは言いつつ、私も前には、かなーり無茶なルールの大会(すんげーマイナーだけど)に出たことがあるので、あまり人のことは言えないんだけどね(^^;