私は敢えて空気を無視する

他の人とは違う独創性を発揮するユニークな個性の持ち主だって、もちろん「空気を読む」ことくらいできる。それは前提にした上で、自分の思いが伝わる表現法やコミュニケーションのやり方を工夫する。
「KY」と気軽に口にする者に感じられるのは一種の怠惰である。空気を読んだ上で、敢えて何かをするという気概が感じられない。空気を読みっぱなしにして、あとは無為にじっとしている。

茂木健一郎 クオリア日記「空気は読めて当たり前」

 いくら私が鈍感だからと言っても、その場の空気とか雰囲気を察することくらいできる。確かに、その場で共通項になっている漠然とした「みんなの総意」とか、話の主導権を握っている人の気分に支配された空間では、得体のしれない圧力が感じられる。その雰囲気を打破することは、たいへん難しい。そして、場を支配した空気を「敢えて無視する」のにはかなりの度胸がいる。
 だが、私は、そんなことで自分の意見や感想を引っ込めるのを望まない。その場の空気や雰囲気などという漠然とした理由で大人しく、慎ましやかにしていろ!などというのは、一種の心理的圧殺、言論封殺ですらあると思う。
 だから、私は、その場で反感を買わないように気を付けながら、空気を敢えて無視して自分の意見を堂々と発言するようにしている。
 この行為に対して、KYだと言われようが構わないとすら思っている。本当はKYじゃなくて、故意に空気を無視しているのだが、そんなことは大した問題じゃない。正しいと思う事や自分の考えを人に伝えない、雰囲気に流されて自分の意見を引っ込めてしまう事の危険性のほうが大きいと思われるから、空気などという訳のわからない状況を壊す覚悟で発言し、行動するのだ。
 全体がこっちに流れているから、何となくこっちに行っておいたほうが良いのかなぁ……という優柔不断な態度は、できれば取りたくない。自分が信じる考えや行動に確信があって、責任を取る覚悟があるのなら、KYなんて気にする必要は全くない。
 実際、そのくらいの気概が無いと、この世の中では悔いを残したり、損をするだけだ。だから、みんなも信念や確信、考えがあるのなら、KYなんて概念は最初から無視しちゃおうね。それこそ、「そんなの関係ねぇ!」だと思うよ。