加害者にも人権はある

少年審判での意見陳述を認められた被害者遺族が、審判廷で加害者の少年に物を放り投げたり、閉廷後、ネットに少年の実名を書き込み、態度を非難したりするケースがあったことが二十七日、日弁連少年法問題対策チームの調査や関係者の証言で明らかになった。「悪魔」「(あなたが)死ぬまで許さない」などと陳述する被害者もいたという。

ネットで実名公開・非難も 少年審判参加の被害者遺族

 あー、刑事事件って、基本的に容疑者を裁き、罪の有無、そして量刑を審議する場だから、被害者は関係ないというのが原則。非情すぎると思われるかもしれないが、そういうことになっている。しかも、検察側の暴走を止めるために容疑者にも弁護士が付き、妥当と思われる審判を下すのだ。
 ここで被害者の遺族が傍聴席に座ってしまって、裁判をかき乱したり、ネガティブキャンペーンをするのは、裁判というバランスを決める場に対しては、非常に危険な行為であり、判断をかき乱す妨害行為であると言わざるを得ない。
 これって非情だと思う?
 でも、判決が確定するまで、容疑者は推定無罪の原則で有罪判決が出るまでは無罪として扱われるわけだし、すべての人の人権は尊重されなければならないという原則を破ってしまう危険性のほうが私は恐いのだ。両方とも憲法で保証されたもの(11条と31条)だから、これに違反するというのはたいへんな事だ。
 裁判というのは、「白か黒か」という単純極まりない判断をする場所ではない。「もし黒なのだしたら、どのくらいの反省期間または罰則期間が適切なのか、更生の余地はあるのか」という容疑者にとってはその後の一生を決めてしまう複雑極まりない判断をする場所なのだ。
 犯罪者なんだから問答無用に「ぶち込め」とか「死刑にしろ」という短絡思考による権力とか感情の暴走は、根本にある人権という思想を根底から否定する行為だ。
 気分にまかせて行動するのは簡単だ。だが、それだと歯止めが効かなくなる。そんな暴走をくい止めるために法律が存在するのだ。大原則として、「法は人を責める物ではなく、守るための物である」という考え方があるのを忘れてはいけない。
 たとえ、容疑者が真っ黒で有罪確実なのだとしても、個人が個別攻撃をするようなマネは、前時代的な「仇討ち」と同じだ。「被害者の気持ちを考えろ!」という意見が聞こえてきそうだが、それも分からないわけではない。しかし、それをやってしまうと何のための法治制度なのか、という話になる。
 確かに刑事訴訟法は人を裁くためのものだ。だが、それ以外の法律は、国民の行動と倫理の規範を示し、秩序を保って国民を守るために存在しているものだという事を忘れてはならない。
 私は逆に、すぐに「死刑にしろ!」などと言ってしまう人に対して、「感情だけで動くと無秩序状態になるけど良いの?」と問い返したい。
 人類は長い歴史の中で試行錯誤を積み重ね、今の法治という概念を生み出した。それまでは復讐、厳罰は当たり前だったのだ。そんな野蛮な時代から、何とか秩序ある社会を作ろうと先人達が努力した結果として今の制度があるのだ、ということを忘れてはならないと考える。
 簡単に法律を厳しくして人を責めろという論理は、逆に自分が法律で保護され、守られ、権利を保証されているということを忘れてしまっているとしか思えないのだ。


#後日追記:このエントリに関して特に顕著だった反応に対する意見を5月4日のエントリに記した。