出来れば「楽しみ」であってほしい

 桜の樹の下には屍体が埋まっている!

 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

――梶井基次郎桜の樹の下には
 桜の季節になるたび,この一節を思い出す.
 実は,とある科学技術史の専門家と議論になったことがある.その人いわく,「進歩には犠牲者が必要だ.歴史が証明している」のだそうだ.蒸気機関,自動車,飛行機,宇宙開発,原子力エネルギなど,「実用になる過程で必ず犠牲者を出してきた」と.
 梶井基次郎が書いたことと同じだ.「桜が美しすぎるのは,屍体が埋まっているからだ」.
 こういう考え方はあまり好きではない.それは技術が未熟であるが故に事故が起こったという結果に過ぎないのであって,「犠牲者が必要」だなんて,それこそ原始時代に行われてきた生け贄の習慣と変わらない.
 今の便利な世の中は,確かに失敗とか大事故,何度もの戦争を経て成り立っているものだ.しかし,それを「必要だった」と捉えるのは,あまりにもニヒリスティックすぎる.しかも,発明や開発に携わってきた人たちの「情熱」や「善意」を否定していることにならないか,という疑問も出てくる.
 確かに,拷問具や大量殺戮兵器の開発に「情熱」を傾けてきた人もいる.今でも,ウィルスやスパイウェアなどを作ることに夢中になっている人もいる.
 でも,そんな「変態的な人たち」が存在することを証拠にして,開発者の情熱や善意を否定するのは,論理的に無理がある.
 さて,私は決してラッダイト主義者ではない.むしろ逆だ.この専門家のほうが「犠牲者を出したくなければ進歩を止めるしかない」と言っているラッダイト主義者そのものだ.何でこんなに自分の専門分野で絶望的になれるんだろうか.不思議は話だ.
 だいたい,人道的な観点と,技術の進歩は全く別の概念だ.技術史的にそれを強引に結びつけられて「牽強付会」の一言で済んでしまう.
 確かに,仕事の場合,時には納期に追われて大変なことになったり,デスマーチ状態になってしまうことがあるかもしれない.過労死や精神を病んだ挙げ句の自殺といった問題も表面化している.でも,それは社会的な問題だ.
 みんなの心の奥底には,「作ることが楽しい」からやっているという「無邪気な楽しみ」が必ずあると信じている.私は,文章を書くのが楽しいから,今もこうして書いているわけだしね.
 だから,梶井基次郎は好きな作家だが,最初に引用した一節や,件の科学技術史の専門家のような考えはしたくない.
 これ,楽観的すぎるだろうか?