苦しい詭弁はみっともない

今現在の価値観で過去を否定したり批判することはたやすいが、それは同時に未来の価値観で現在が否定されることもあり得るということだ。時代は移り変わり、価値観も変わる。過去を教訓とするべきではあっても、今の価値観で安易に過去を否定することは愚かである。

近代日本の基礎を築いた先人たちの努力と苦難を思い起こす日として

 この一節の意味がとれないのは私だけ?
 まず第一文、これがまず変だ。人間には、過去を反省し、批判することで時代をより良いものにして行く義務がある。実際、今現在も、未来からすれば、「酷い時代だった」と言われるだけの「とんでもない状況」だと思われる。「あり得る」のではなくて、「そうされて当然」だと書くべきなのではないのか? 時代は確実に進むのである。その観点が抜けているとしか言えない。
 第二文は当然だ。時代によって価値観が変わらないというのは逆に恐い。
 そして最大の問題点は第三文だ。これまで続いてきた流れを断ち切るかのような文章である。「結局、どっちやねん?」と宙ぶらりんな気分になるのは、私だけだろうか? 「教訓とする」というのは、「今の価値観で過去の出来事を批判・反省し、その後に活かす」ということではないのか。事によっては「全肯定」される出来事もあるだろうし、「全否定」される出来事もあるだろう。この人の論法には「事と次第と内容によって」という視点が抜けている。その態度が安易だろうが慎重だろうが、「その時々の価値観で過去の出来事が否定されることは十分にあり得るし、それが愚かな事なのかどうかはわからない」のである。
 そして文章は続く。

独立を保ち、欧米の列強国に伍して近代国家として生きるためには、当時は軍事力が必要だったのだ。そしてさらに躍進するべく「坂の上の雲」を目指して苦難の道を歩み近代日本の礎を築いた先人たちの努力と苦労を偲ぶ日として、5月27日をひとつの機会としても良いのではないだろうか。

 要するに、過去の「富国強兵時代」や「大陸への侵略戦争」という「日本が犯した間違い」を、「当時は仕方がなかった」とか「先人の努力と苦労」と言い換えたいだけの無理なこじつけにしか読めない。そして「さらに躍進」というのは、歴史的に見て、日本軍が石油資源を求めて南下して、太平洋戦争にまで至り、敵味方を問わず無意味な死を大量に生み出した事をいっているのだろうか?
 極端な話、このすり替え論法を使えば、歴史上の全ての汚点が正当化されるということを筆者はどう思っているのだろうか?
 たとえば、「中世の魔女狩りによる大量虐殺は、教会の権威を維持し、教義の正当性を保ち、地域の道徳的な価値観の統一を図るために必要だった」とか、「スペインによるインカ帝国での虐殺は、当時の帝国主義による領土確保と奴隷確保の観点からして仕方がなかった」とか、「ヒトラーは弱体化したドイツ国民を鼓舞し、優生的人種であるアーリア人による世界支配を実現するという理想のために立ち上がらざるを得なかったのだ」と、大勢の前で堂々と言える人がいるのなら、私はその人をゴミ以下だと見なすだろう。
 結局のところ、「何が何でも弁護・評価したい」という希望から出発しているがために、論理が強引になってしまっている「単なる詭弁・屁理屈」にしかなっていないと思われる。
 この文章を読んで、そう思うのは私だけ?
 醜い中途半端な軍国主義の論法が透けて見えて気味が悪い。