クラーク「楽園の泉」はなぜ傑作なのか?

クラークはまた、イデオロギーや信仰、思想、歴史を背負った文化というものを決して「蒙昧」扱いしない。
数千年の歴史を持つ文化は人類にとっては付け焼刃とも言える科学とは比べ物にならないほど老獪であり、強い生命力を持っていることをクラークはよく分かっていて、それは綿密に描かれている。

Takano's diary:Use them together, use them in peace

 高野史緒氏による「楽園の泉」論およびクラーク論である。私は同氏の主張に対して全面的に賛同する。
 実のところ、私はアシモフ-マーチン・ガードナー的なスタンスのほうが好きで、クラーク-カール・セーガン的なスタンスは、いまいちピンと来ない。(これは私が実験系ではなく、数理系だからか?)
 それは、科学に対する向き合い方という点で、クラークやセーガンが楽観的すぎるように思えるからだ。
 確かに、クラーク的な価値観を認める事には躊躇しない。非常に科学的な態度であり、科学の不可能性や不完全性をわかったうえで「科学は人類を自由にする。そして文明や文化と同居できる」と主張しているのだから。ちょうどスタニスワフ・レムは同じ事を逆の立場から描いた。レム的なスタンスである「科学は人類を自由にする。だが、科学は永遠に万能のツールにはなりえない」というのもまた確実に正しい。
 だが、私はレムを受け入れる事が出来て、クラークに対して大きな思い入れが無いのはなぜだろうか?
 クラークは、科学の不完全性よりも可能性に期待し、あくまでも楽観的に考察をした。「オデッセイ」シリーズなどは、その楽観性のみが強調されすぎているように思えてしまって、あまり好きにはなれなかった。だが、「宇宙のランデブー」や「楽園の泉」は、「それでもやっぱりわからないこと」や「伝統的文化との共存」にまで主題を拡張しているという点で受け入れる事ができる。
 これは私が「科学」というものに対して、「人類を自由にするが、永遠に不完全であり続けるもの」という認識を抱いているからなのかもしれない。
 アシモフは、純粋に科学やロジックの楽しさを追求し、描いた。
 クラークは、科学が人類にもたらす可能性を提示し、文化や文明との理想的な融合を描いた。
 レムは、科学の不完全性と限界の立場から、人間には永久にゴールはあり得ないということを描いた。
 ここで強調しておかなければならないのだが、私は科学に対して悲観的に考えているのではないということだ。科学は楽しいし、人類を自由にした。それだけでも存在意義は十二分にあるし、無くてはならない物だ。
 だが、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という限界があるということも分かった上で科学と向かい合わない限り、科学者の人生は虚しいものになりかねない。ここに罠がある。現在問題になっている「ニセ科学」や「スピリチュアル」が蔓延する背景に関しては、科学に対する万能感への期待と、その期待への裏返しとしての絶望を抜きにして語る事はできない。だから、一方的に「楽しさ」や「可能性」だけを宣伝するのは危険なのではないかとも考えるのだ。
 だから、科学者は、まず「ツールとしての便利さや期待、人を自由にする思考」を教えるのと同時に、「わからないことのほうが多いし、限界もあるからこそ科学が成り立っているのだ」ということも教えなければならないと思う。
 アシモフやガードナーは、ああ見えて論理の限界点というギリギリの場所で生じる面白さを読者に提供していたと思う。そして、レムは、科学の不完全性を前提に認識の限界、論理の限界、公理系の中で行われる演繹的思考の限界を読者に提供した。
 その一方で、クラークやセーガンは、その部分が甘いように読める。クラークの「乾きの海」や「オデッセイ」シリーズは確かに作品として面白い。だが、何か釈然としない読後感が残るのだ。「ここまで演繹的思考を万能ツールのごとく描いて良いのか?」という疑問である。
 これは、もちろんクラークが確信犯的にやっているということはわかっている。だから、実際に、クラークは「宇宙のランデブー」や「楽園の泉」を書く事ができたのだから。
 クラークは、「なぜラーマ人は三を基準にして物を考えるのか?」といった「わからない」という問いかけや、聖地での巨大土木事業という題材で伝統文化と科学・工業の理想的な折り合い方を提示した。この点に、クラークは「わかっていた」ということが読み取れるので、「宇宙のランデブー」や「楽園の泉」は傑作なのだ。
 レムが逆の立場から出発して「天の声」や「ソラリス」を描いた。でも、クラークとレムは、ここで同じ結論に達している。ちょうど線の反対側から出発して、同じ時点でばったりと出会っているのだ。
 技術系や科学系では、クラークも好きだけど、レムも同じくらい好き、という人が多い。それは非常によくわかる。可能性と不可能性の探求こそが、科学の本質であり、醍醐味なのだから。
 そのようなわけで、私はクラーク作品では「宇宙のランデブー」と「楽園の泉」が特に好きなのだ。


#ちょっと語り切れていないので、この項は続けるかもしれない。