現実はドラマのようにはいかない
TVドラマ版「いじめられっ子のチャンピオンベルト」を見た。
はっきりと書いておこう。現実はドラマのようにはいかない。いじめた相手に感謝することなんてあり得ない。いじめた当人が、いじめられた本人に何か言う事なんてあり得ない。そんなのは作り物の中の奇麗事だ。確かに「いじめられた経験」が発憤する要素になることがあるかもしれない。それは認めよう。だが、その苦い思い出が残す傷が、一生の間、負け犬でいさせてしまうことだってあるのだ。また、「楽しみのために集団で一人を苦しめた」という事実の裏にある本当の意味を、いじめた当事者が理解しているとは思えない。
だが、「された側」には一生の傷が残る。それを何かに昇華させるのは至難の技である。
今となっては(当時もそうだったが)、タイマンだったら負ける気はしない。今の私の実力なら相手は一秒も持たないだろう。それだけの実力差があることはわかっている。私の「勝ち」は明白なのだ。でも、憎しみは消えない。そして、この憎しみを持って行く先は無い。なぜなら、いじめた本人達にとっては、「もう遠い過去の楽しかったエピソード」に過ぎないからだ。また、多くの場合、相手が「単なる冴えないメタボオヤジ」に成り下がっていることも明白だからだ。そんなのを相手にしてもこっちの側が「逆につまんない」。
ただ、一度、無性に腹が立った事がある。いじめに関して、いじめた側が私に向かって言った。「あれ、やっているほうはかなり楽しかったんだよねぇ」。その時、〆てやろうかと思ったが、本人は何で〆られるのか理解できないだろうから止めておいたが。
軽い気持ちで、多感な人間の心を台無しにする。それが「いじめ」だ。そんなアンフェアで卑劣な行為は絶対に許されてはならない。「いじめ」は人として最低の行為だ。過去にそんな経験をした人間がいたら、私の前でカミングアウトしてみると良い。私がそいつの一生をメチャクチャにしてやる。私はそれくらいに、「いじめ」という行為が憎いのだ。
私が誰かをいじめていると言う事実に敏感で、そういう根性を少しでも持った人を決して許さないのは、そういった経験が元になっている。
だから、昔の記憶が発動するのを避けるため、私は同窓会やクラス会などには絶対に出ないようにしている。自分で自分を制御する自信が全く無いからだ。
でも、そこで我慢しているというのが、厳しい練習で学んだ「活人拳」の一部だとも思っている。
#まあ、一度、間違ってクラス会に出席してしまって、そこで喧嘩を仕掛けられたので、やりかえしてしまった(脇腹に三発撃ち込んだ)という苦い思い出があるというのも事実なんだけどね(^^;
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