「いじめ」は気持ちの問題ではない
「のび太のくせにー」とジャイアンは言う。のび太は体力もなくて気も弱い。
でも、気が強くて喧嘩が強くても、集団による「いじめ」には無力だ。これは体験談から書いている。
一度、「大野のくせに」と思われたら、もう終わりである。どれだけタイマンが強かろうとも、言い返す気があろうとも、集団の前には無力だ。「大野だから何をしても良い」という共通の理解が出来てしまうからだ。
最も恐いのは、「口」と「風評」である。ネチネチと口でやられると相当に応える。言い返しても「大野の分際で生意気だ」ということになって、集団での報復が待っている。
また、個別に仕返ししても意味がない。後で集団での報復が待っているからだ。
何度か、道具を持って大人数を相手に大立ち回りをした事がある。当然、学校の備品や校舎は壊れた。私としては緊急避難として、仕方が無くやったことなのだが、先公が言ったのは「道具を持つのは卑怯だ」ということのみである。集団による「いじめ」という現象を認めなかったのである。集団による一人への精神的・物理的な攻撃は「卑怯」ではなかったのだ。実際、「大人数を相手に道具を持たなきゃフェアじゃないじゃん」と言っても聞き入れられなかった。
その頃には「いじめ」という概念がまだ浸透していなかったから仕方がないのかも知れないが、一切の反撃を禁じられた者に対して、人は容赦ない。
タイマンも口喧嘩も、悪い結果が待っている。大人数との大立ち回りでは「卑怯者」扱いされる。これでは手の出しようも、反撃のしようもないだろう。
だから、私は耐えるしかなかった。タイマンなら勝てると分かっていても、無抵抗のまま、されるがままでいるしかなかった。反撃しようものなら「大野のくせに」という論理での集団での暴力を背景にした威嚇が待っているのだから。
だから、いじめに加わる連中の決まり文句は、言いがかりを付けておいて、不利な立場になると、
「やるのか?」
の一言だった。もし、私が勝っても後で集団で復讐できるし、その時に勝てば万々歳。要するに、自分は絶対に安全な地帯に身を置いての挑発である。
親は「大きい子には逆らうな、小さい子には手を出すな、同年代とは仲良くしなさい」と、状況を無視して言い続けた。無抵抗主義を貫け、と言う事である。しかし、そんな状態での無抵抗主義など、地獄でしかなかった。
そんな訳で、今となっては私はもうそんな目に遭うのは嫌だし、人がそんな目に遭っているのを見過ごす事はできない。私の信条は、「義を見てせざるは勇無きなり」、である。
「いじめ」は集団心理が巻き起こすマスヒステリーという異常な状態である、という事を念頭において対処しない限り、絶対になくならない。今、何かと報道される「いじめ」の問題を知るにつれ、教師や親にそういった認識が足りないのではないか、としか思えないのである。