体育ができても人生決まらないよ

   「体育」ができないと人生終了

小学校のときからスポーツさえできれば「あいつすげえ」ってなって友達できるし、そのことによって性格も明るくなっていく。
しかも体育できるやつはそういう子供のころからの「成功体験」があるから何事にも積極的になれるし、なにやってもうまくいく。

 自分の経験で言わせてもらえれば、これは勘違いである。
 申し訳ないが、私は体育がそこそこできるほうだった。長距離走や一部の球技(投てきとか道具を使う球技は一切ダメ)を除けば、学年の中でもかなりできるほうだった。あとは子供にとっての課外の体育である「取っ組み合い」とか「プロレスごっこ」も強いほうだった。
 しかし、性格は引っ込み思案で人見知り、あまり多くを語れるタイプではなかった。
 逆に、そこそこ体育も勉強もできたかわりに性格が外向的でなかった、しかも女顔で大人しそうに見えたということで、「あいつ、気にいらねー」と思われたらしく、いじめの標的にされた。
 確かに、いじめの標的になった体験は、今から考えると貴重なものではあったが。
 「あいつすげえ」という感想は、必ずしも「尊敬の方向」には向かないし、逆に「何だコイツ」という逆の感情にも向かいかねないという両面を併せ持ったものだ。「何だコイツ」と思われてしまった後に待っている体験は、とても「成功体験」とは言えたものではない。
 私がどんどん内向的になり、最後にはヲタクになってしまったのには、そういう背景がある。
 私が何とか自分が自分でいて良いのだと思えるようになったのは、ヲタクになりきって、SF大会などの催しに参加するようになってからだ。自分と同類の人種がいたという発見は、それだけ大きなことだった。
 だから、一概に「体育ができる」ということだけで、それが「成功体験」に繋がるとは思えない。それよりも性格と趣味のほうが大きいのじゃないかと思う。