反体制も愛国の形である

文部科学省は28日、2月に公表した小中学校の新学習指導要領改定案の総則に「国と郷土を愛する日本人を育成する」という文言を新たに盛り込み告示する。

学習指導要領:総則に「国と郷土を愛する」 異例の修正

 何かを愛するか、そうしないかは個人の信条。そして信条は強要されるものではなく、自分で考え、自分の判断で決めるものである。そういう人間に育てるのが「教育」の第一原則じゃないの?
 これじゃあ、第一の原則に反していて、「特定の思想を刷り込む」という洗脳活動に過ぎないじゃん。洗脳と教育は紙一重の存在だが、洗脳は考え方を押しつけて画一化し、教育は各個人の個性を育てて自由な人間にすると言う点でベクトルは正反対のものであると考えている。
 だいたい、「日本を愛するが故に、現在の状況に満足せず、もっと良くする活動をするために反体制の立場を取る」というのも立派な愛国心だ。そのことを故意に無視している。これは都合が良すぎる判断だと言わざるを得ない。右翼や保守派ばかりが愛国者じゃないのよん。
 なにかと耳にするのだが、反体制の者に「嫌なら国から出て行け!」と言うのは暴論中の暴論。代議制の意味って知っている?とか、野党は存在しちゃいけないのか?と問いたい。与党のみの独裁という体制の危険性をわかっていないとしか思えない。良くしてゆくためには反対勢力も含めて多様な意見をぶつけ合い、議論する事が必要なのだ。
 ともかく、現状に満足せず、「国が自分の理想とする状態に近づくようにしたい」と思うから、国内で改革運動や反体制運動をするのだ。
 だから、私は保守派も右翼も左翼もまとめて活動するのは自由だと思うし、そうであるべきだと思う。議論がなくなったら、その先には停滞と退行が待っている。「ソ連」という国が、そういう先例を作ってくれているし、それが暴走した結果として何が起こるのか、というのは隣の半島にある北の国が実例を見せてくれている。
 なぜに政府が反対意見を丸めようとする方向に突き進むのか。本来の「自由」とは、自分で考え、自分で結論を出し、自分の信条に沿って行動し、自分で責任を持つ事だ。その結果として、保守になろうが右翼になろうが、左翼になろうが、それは各個人の自由であるはずだ。
 「国と郷土を愛する」というが、愛さないという自由、愛せないから変えようと考える自由を侵害しようとしているとしか思えない。それでも愛せなければ海外に移住するし、愛せないから愛せるように変えようと活動をする。それのどこが間違っているの? 思想・信条は自由なものであるはずだ。
 「愛するがゆえの反抗」という、人の世界では珍しくもない信条を切り捨てている時点で、この考え方は非常に危険なものだと考える。
 ちなみに、私は左翼で反体制だけど、日本の伝統文化は好きだし、この国は良い国だと思っているのよ。意外かもしれないけど。でも、現状では「まだ良くなる」と思っているから文句を言いたくなるわけさ。反体制の愛国者っていうのは、決して矛盾する概念じゃないと思うのよね。逆に、愛国者が、一律で国家主義者でなければならないとか、そうであるはすだ、という考え方の方が偏っているとしか思えないんだよなぁ。