考える機会は与えられるべきだ

ドキュメンタリー映画靖国」の上映中止が相次ぐ中、今度は、旧日本軍による南京大虐殺は“ねつ造”だったとする映画の国会議員向け試写会が行われました。
国会内で、南京大虐殺はなかったとする映画の試写会が開かれているその最中に、都内では、映画「靖国」の上映中止と表現の自由を考えるシンポジウムが開かれていました。
「(映画『南京の真実』も)見たいですね、僕は。当たり前です、(映画『靖国』も)どっちも見たいです。みんなで見ればいい。“上映してはいけない”とは思わない。見て、自分の中でそれを考える」(ドキュメンタリー作家 森 達也 氏)

映画「南京の真実」、国会内で試写会

 そうそう、「自分で考える」という事が人にとって最も重要な行為だ。たとえ、「考えた結果」がどうなろうとも、それはその人の結論だから尊重されるべきだ。もし、食い違いがあったとしても、徹底的に議論すれば良いだけの話だ。
 だから、「考える機会を奪う」という行為は、人間に対して、その最も特徴的な器官である「発達した大脳」を使わせないという非常に危険なものだと考える。
 考える機会は与えられなければならない。そして、考えるための材料も与えられなければならない。そうでなくては考えることもできないし、判断もできない。考えたり判断ができなくなったら、それはあまりにも人間らしくない
 「表現の自由」。これには、人々に主張を投げかけ、考えて、判断してもらう機会を平等に与えるという意味もあると思う。それを奪うのは、人間らしくするなと主張しているようにしか見えない。
 件の映画を上映中止に追い込んだ方々は、「国民に考えて欲しくない」と思っているのだろう。非常に危険な発想だ。
 自分の都合で「考えて欲しくない」と思い、上映を中止させるなどということは、国民が自分で考える自由を奪うという、言語道断な行為だとしか思えない。あまりにも身勝手すぎる。そんな人物が、国会議員という「国民の代表」をやっているという事実が嘆かわしい。