いじめに物で対抗するのは卑怯ではない

私立青雲中(時津町)で教諭から体罰を受けたとして、元同中2年の少年(13)が21日、同中や教諭らを相手取り、慰謝料など総額約4000万円の損害賠償を求める訴えを長崎地裁に起こす。
23日には、教諭の1人に左肩をけられるなどし、全治約3週間のけがを負った、などとしている。
訴えの中で、両親は、「悪質極まりないいじめ」と指摘。

「教諭から体罰」提訴へ 青雲中元生徒、賠償求め

 今の制度や、間違った悪平等の考えからすると、相手が明らかに力を持っている場合、被害者は蹂躙されるしか無い。
 たとえば、明らかに相手の立場が強い場合、相手が多すぎる場合、相手との体格差や力が違いすぎる場合など。
 こんな時に、一方的な被害に遭っても我慢を通すというのは、道徳的には正しいかも知れないのだが、その後にも残る心や体の傷を負ってでも耐えなければならないものなのか。私にはこの点がわからない。
 一度、中学の時、集団にやられたことがあった。どう考えても一人では太刀打ちできない。別の時には、身長が10cm、体重で20kgくらい違う相手から仕掛けられてしまい、とても太刀打ちできないこともあった。
 だから、大勢に立ち向かった時には椅子を持って振り回して追い払ったし、大きな相手には噛み付きで対抗した。だが、残念なことに椅子を持った時には教室の一部を破壊してしまった。
 そして教師は言った。「武器を持つなんて卑怯者のすることだ」。
 さて、集団で一人を暴行する行為に対抗するために物を持つことと、確実に暴力で勝てるとわかっている相手にいじめを仕掛けるような行為とでは、どっちが卑怯だろうか?
 結局、教師の判断では、椅子を持った私が悪い、噛み付いた私が悪いという事になった。となると、私を標的にした相手は無罪放免である。
 教師によるこの処置は明らかにフェアな判断ではなく、間違っていたと今でも確信している。
 だから、相手のほうが社会的に見て圧倒的に立場が上ならば、法律を用いてでも、とにかく断罪するのが正解だと思う。それが社会的な弱者に与えられた唯一の武器なのだ。
 いじめという現象は、何らかの形(数、体格、社会的立場)で強い者が、弱い者に対して一方的に肉体的・精神的な暴力を行使する事だと私は考えている。だから、いじめに対抗するのには武器を持て!それしか対抗する手段は無い!しかも、一方的にいじめる側こそが卑怯者なのだ!と私は思う。
 たとえ武器を持ったとしても、一人で脅威に対抗するというのは、勇気がいることかもしれない。でも、その場で身を守らなければ、その後でずっと心や体に傷が残る。そんなつまらないことで後悔しないためにも、何としてでも対抗する勇気を持って欲しいと思う。