歴史ある第一歩

日本プロボクシング協会は27日、女子ボクシングの第1回興行を5月9日に東京・後楽園ホールで開くと正式に発表した。4回戦と6回戦で計11試合が組まれ、日本ボクシングコミッションJBC)のプロテスト合格者からは8人の出場が決まった。今後、追加選手が発表される。

女子ボクシング出場選手決定 5月に第1回興行

 柔道やレスリング、テコンドーはオリンピックでも女子の部門があるが、ボクシングは無い(あ、レスリングのグレコローマンに女子は無いけど、身体能力的に無理でしょ)。まあ、ボクシングなんてマジで危険なスポーツだからね。コミッション側としても及び腰だったのはわかる。でも、女子のボクシング人口が増えているのは確かだし、プロ興業でプロレス、総合格闘技などでは女性だけの大会が行われている。その他の武道や格闘技でも男女部門を共同で行うというのは当たり前になっている。
 そして、ついにボクシングもその仲間入りをする。いきなりの大会で、高レベルな技術の攻防は期待できないと思うし、スピードなどで男子に劣るのは仕方がないと思うのだが、女性の本気と覚悟は見てみたい。
 可能性のある歴史の第一歩を踏み出す選手達の決意と勇気に拍手。是非とも観に行きたいものだ。でも、賛同者はいなさそうだから、一人で観戦という事になっちゃうのかなぁ……。

反体制も愛国の形である

文部科学省は28日、2月に公表した小中学校の新学習指導要領改定案の総則に「国と郷土を愛する日本人を育成する」という文言を新たに盛り込み告示する。

学習指導要領:総則に「国と郷土を愛する」 異例の修正

 何かを愛するか、そうしないかは個人の信条。そして信条は強要されるものではなく、自分で考え、自分の判断で決めるものである。そういう人間に育てるのが「教育」の第一原則じゃないの?
 これじゃあ、第一の原則に反していて、「特定の思想を刷り込む」という洗脳活動に過ぎないじゃん。洗脳と教育は紙一重の存在だが、洗脳は考え方を押しつけて画一化し、教育は各個人の個性を育てて自由な人間にすると言う点でベクトルは正反対のものであると考えている。
 だいたい、「日本を愛するが故に、現在の状況に満足せず、もっと良くする活動をするために反体制の立場を取る」というのも立派な愛国心だ。そのことを故意に無視している。これは都合が良すぎる判断だと言わざるを得ない。右翼や保守派ばかりが愛国者じゃないのよん。
 なにかと耳にするのだが、反体制の者に「嫌なら国から出て行け!」と言うのは暴論中の暴論。代議制の意味って知っている?とか、野党は存在しちゃいけないのか?と問いたい。与党のみの独裁という体制の危険性をわかっていないとしか思えない。良くしてゆくためには反対勢力も含めて多様な意見をぶつけ合い、議論する事が必要なのだ。
 ともかく、現状に満足せず、「国が自分の理想とする状態に近づくようにしたい」と思うから、国内で改革運動や反体制運動をするのだ。
 だから、私は保守派も右翼も左翼もまとめて活動するのは自由だと思うし、そうであるべきだと思う。議論がなくなったら、その先には停滞と退行が待っている。「ソ連」という国が、そういう先例を作ってくれているし、それが暴走した結果として何が起こるのか、というのは隣の半島にある北の国が実例を見せてくれている。
 なぜに政府が反対意見を丸めようとする方向に突き進むのか。本来の「自由」とは、自分で考え、自分で結論を出し、自分の信条に沿って行動し、自分で責任を持つ事だ。その結果として、保守になろうが右翼になろうが、左翼になろうが、それは各個人の自由であるはずだ。
 「国と郷土を愛する」というが、愛さないという自由、愛せないから変えようと考える自由を侵害しようとしているとしか思えない。それでも愛せなければ海外に移住するし、愛せないから愛せるように変えようと活動をする。それのどこが間違っているの? 思想・信条は自由なものであるはずだ。
 「愛するがゆえの反抗」という、人の世界では珍しくもない信条を切り捨てている時点で、この考え方は非常に危険なものだと考える。
 ちなみに、私は左翼で反体制だけど、日本の伝統文化は好きだし、この国は良い国だと思っているのよ。意外かもしれないけど。でも、現状では「まだ良くなる」と思っているから文句を言いたくなるわけさ。反体制の愛国者っていうのは、決して矛盾する概念じゃないと思うのよね。逆に、愛国者が、一律で国家主義者でなければならないとか、そうであるはすだ、という考え方の方が偏っているとしか思えないんだよなぁ。

名言だと思う

 通り魔殺人に関して犯人が「相手は誰でも良かった」と言っている件について、知り合いが言った。
 ハイエナはライオンを襲わない!
 誰でも良いなら、ヤクザの事務所に行けば良い。
 確かにその通り。暴力団事務所に包丁持って押しかけて血の海にしても、一般人を襲うよりは世間の反応が温かくなるものと思われ(^^; その場合、任侠派右翼の事務所でも可。

カルト化した国家の行方

「集団自決には旧日本軍が深くかかわった」。ノーベル賞作家・大江健三郎さん(73)の「沖縄ノート」の記述などを巡り、旧日本軍の元戦隊長らが出版差し止めなどを求めていた訴訟。28日、大阪地裁の深見敏正裁判長が、原告敗訴の主文を読み上げ、軍の関与に触れると、傍聴者で満席の202号大法廷は「よし」という声とため息が入り交じった。
「私は原告らの個人名を挙げて罪人扱いしたことはない。当時の皇民教育を背景に起きたことと考えているからだ。判決は私の『沖縄ノート』をよく読み込んでくれた」と満足そうに語った。

集団自決訴訟:軍の関与…法廷内に支援とため息入り混じる

 「皇民教育」というカルト洗脳状態にあった人の行動を非難することなどはできない。それは当然だ。
 したがって、「軍の命令=天皇陛下の言葉=神のお告げ」であるということで、心理的な強制であったということは容易に想像できる。命令する側も、命令された側も、天皇を神とする「神国日本」の思想に支配されていたのだから、両者とも通常の判断ができたとは思えない。もう、歴史的に不幸な背景があって行われたことだと言うしかない。
 だからこそ、その「現人神」として祭り上げられ、多くの国民を洗脳状態にし、周りの国々まで巻き込んで多くの人命を奪ったシンボルを、私は許すことができない。
 断言すれば、祭り上げられ、本人達もそれを受け入れ、拒否しなかった。そして、周りの暴走があったにせよ、最高責任者としてそれを止めることができなかった時点で、確実に責任はある。私はそう思う。

沖縄ノート (岩波新書)

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